脳の支配

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 特急列車が長いトンネルを抜けると、窓の外は緑の山々が広がっていた。
 今まで見たことがないほどの深い緑は、わたしの目にはとても新鮮に映り、憂鬱だったこの道のりが急に色鮮やかに息づいていった。


 ちょうど一ヶ月前、パパが会社で転勤を命じられた。
 それからわたしたち家族はパパが単身赴任するか否かを話し合った。
 翌日には単身赴任を推していたママが家族で引越し賛成派へと変わっていたとき、わたしは唖然としてしまったことを鮮明に覚えている。
 一週間ほど家族で話し合ったのだけれども、そのほとんどがわたしへの説得に費やされたのは言うまでも無かった。
 結局、わたしはパパたちに説得されてしまい、住み慣れた土地と心許した友人たちと別れることになってしまった。
 今朝、友人たちが見送りに来てくれたときは涙腺が緩み、膨大な涙が零れ落ちた。
 時間の許す限り別れの名残惜しさに浸り、大人になったら絶対また会おうねの言葉を交わし、わたしたちは別れた。
 最寄駅で先に出ていたパパたちと落ち合い、そこから一時間ほど電車に乗り、バスに乗り換えればバスに四時間ほど田舎道を揺られ、最後には特急電車に乗り換えた。
 そして三時間、特急電車に揺られ続けた今、長かった旅は終わりを告げようとしていた。
「トンネル抜けたからな、もうすぐで着くぞ」
 文庫本を静かに読んでいたパパが読んでいたところにしおりを挟みながら口を開いた。
 わたしは窓の外に広がっている緑の景色に気をとられていて、パパの言葉は右から左へと流れていった。
「ほら、みえ。すぐに降りられる準備をしちゃいましょ」
 ママの言葉は、窓の外をうっとりと眺めていたわたしを強引に現実へと引き戻した。
「はあい」
 降りる準備と言っても、今、わたしたちはいつも出歩くときに持って歩く手荷物くらいしか持っていない。
 そのため、降りる準備も瞬間終わってしまう。
「わぁ、森だ! 森があるんだ……」
 進む特急電車の右手側に都会では見られないほどの深い森が広がっていた。
 特急電車スピードが徐々に落ち始めた。
 緑豊かな田園景色に住宅がぽつりぽつりと姿を現し始めた。
 昨日まで生活していたような密集した住宅街ではないけれども、自然がいっぱいでのんびりと過ごせそうな場所だった。
「ほら、パパ。駅弁のゴミくださいな」
 街が見え始めたからか、ママが車内で食べたもののゴミを集め始めた。
 わたしたちは、いよいよ新境地に足を踏み入れる。


 降り立った駅は、白く綺麗だった。
 それも、半日かかった移動の苦痛もすっかり吹き飛んでしまうほどに、綺麗ですてきな駅だった。
 駅は木造建築だったけれども、まったく古さを感じさせず、壁はペンキで真白く塗られていた。
 その内装は、日本なのにまるでどこか外国に来ているような錯覚を覚えるよう。
「すごいわ……」
 ママが感慨深げに駅を眺めながら呟いた。
 わたしもママにならって駅の内部を仰ぎ見る。
「うっわぁ……ッ!」
「てっきり田舎だと思っていたけれども、まさかこんなに綺麗だなんて……」
 ママは駅の入り口へと歩きながら感慨深げに呟いた。
 駅から一歩外に出ると、土地一帯が一望できた。
 小高い丘の上に建っていることで、この土地は四方が山と森に囲まれていることがよくわかった。
 パパを先頭にわたしたちは駅の正面からゆるやかに下っている坂を降りていった。
 舗装されていないむき出しの野道は、石ころが転がっていたけれども、それほど歩き難くはなかった。
 進むごとに徐々に近付いてくる街の景色は、思い描いていた景色を吹き飛ばした。
 わたしは今、目の前で広がっている景色を目に入れるまでは、通常思い描くような日本家屋が立ち並んだ田舎町を想像していた。
 でも、今目の前で広がっている景色はそれとはまったく異なっていた。
 道路はすべて石畳で舗装され、何故か馬が馬車を引いていた。
 建っている建物はすべて洋館仕立てになっていて、見事に調和していた。
 目の前に広がる光景は、もはやここが日本に存在する街だと言われても信じられないほどに、日本らしさが消え失せていた。
 言葉の出ない感動とは、こういうことを言うのだろうか。
 そんなことを頭の隅で思いながら、わたしはママと一緒に目を輝かせていた。
「すごいすごいっ! こんなとこ、日本にあったんだ……ッ!」
 感動が言葉を伴って表れたのは、駅から繋がるメインターミナルへとたどり着いたときだった。
 わたしは感動で動くことができず、その場でただただ心を震わせていた。
「あれに乗るぞ」
 パパが指したものは、見事な毛並みを持った栗毛の馬二頭が引く箱型の馬車だった。
「えっ!? 馬車に乗ってもいいの!?」
「ああ、当たり前じゃないか。あれは乗り合い馬車になっているらしくてね、行きたい場所に連れていってくれるんだそうだ。この街には、バスもタクシーもない代わりに、景観にあったああいう乗り物ができたらしい。今まで住んでいた環境と比べると多少不便ではあるが、なかなか良さそうだぞ」
 まさか馬車に乗れると思っていなかったわたしは、興奮でぼやける頭のまま、パパに促されてわたしとママは先に馬車に乗り込んだ。
 乗り合い馬車だからか、中はそこそこ広く、八人くらいまでなら乗れそうだった。
 けれども、わたしたちが乗った馬車は誰も乗っていなかった。
「ママ、すごいね」
 誰もいないけれども、何故か声を潜めてしまう。
 それはママも同じなのか、言葉を発さないでただ頷いた。
「行き先を告げてきた。出発するぞ」
 パパがそう言いながら、馬車に乗り込んできた。
 パパがちょうどママの隣に腰を下ろしたとき、馬のいななきが聞こえ、馬車がゆっくりと動き始めた。


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