出会い

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 村の背後を守るように広がっている深い森にまで、月の明かりは届かなかった。
 少女エイーラは暗い森の中、自分の記憶を頼りに両親たちとの思い出の場所を目指していた。
 時折、風に揺れる木々の葉がこすれる音がエイーラを驚かせたが、森に棲む獣たちはエイーラの邪魔をしなかった。
 前方がほのかに明るくなり、エイーラは進む足を速めた。
 泉に反射した月明かりが一筋の光となって、森の中を駆け抜けていた。光の筋をさかのぼるように森を奥へと進み、開けた場所に出た。
 中央には月を映した泉が静かにきらめいていた。
「ついた……」
 静けさが包む中、エイーラは皮のブーツを脱ぎ、その足を泉に浸した。それと共に、幼き頃の思い出が蘇える。




 まだエイーラは幼く、父も母も健在だった。
 祖母が魔に魅せられたことで、村人たちの風当たりはつらい物へと変わっていた。
 父にはまともな畑を与えられず、母にはまともに物を売ってもらえなかった。それはエイーラも同じことで、エイーラは外に出る度に泣いて帰ってきた。それでも両親たちは優しかった。
 この泉は、満月の夜に両親たちと来た思い出の場所だった。この場所に来れば、辛い現実をたったひと時だけでも忘れられた。
 それは父が畑仕事中に倒れそのまま亡き人になった時も、母が病に倒れ父の元へと旅立った時も、エイーラはここに訪れた。この森の泉はエイーラにとって心を癒す唯一の場所だった。


 両親がいなくなった後、幼いエイーラを引き取ってくれたのは父方の叔父夫婦だった。しかし、そこはエイーラにとって安息の場所とは到底言えなかった。
 エイーラに宛がわれた寝床は物置の藁だけだったし、与えられる食事も到底満足の行くものではなかった。その上、叔父夫婦はエイーラをまるで使用人のように、太陽が顔を覗かせる前から深く夜が更けるまで働かせた。
 そんな生活を送り続けたエイーラはやせ細り、身なりもボロボロだった。けれども、エイーラは満月の夜に泉に来ることだけはやめなかった。




 泉の水面で足を波紋を作りながら月を仰ぎ見た。清らかなその光が周囲を照らし、明るかった。
 後ろで突如、枝が割れる音がした。
 身を震わせたエイーラはそっと泉から足を引き抜き、周囲を窺うように目を走らせていると、木の影からエイーラと同じくらいの少年がそっと出てきた。少年は木の影に隠れていてその全貌はいまだ見えずにいた。
「……だれ?」
 エイーラが呟くそうに問いかけると、少年はようやく木の影から出てきた。
 出てきた少年は月のように白い肌に、血のように紅い瞳をしていた。そして、闇夜より暗い漆黒の髪が少年の顔を縁取っていた。肢体はすらりと伸び、エイーラとは違って健康的な肉付きをしていた。エイーラは少年のあまりの美しさに言葉を失っていた。
「君は……どうしてここに?」
 少年が不思議そうに問いかけた。エイーラは目を瞬いて少年を見つめ、何も反応することができなかった。
「……僕の顔に何かついてる?」
 少年が怪訝そうな顔でエイーラを覗き込んだとき、ようやくエイーラは声を取り戻した。
「ついてない、よ」
「どうして僕を見ていたの?」
 少年の問いかけにエイーラは自分の足元を見つめ、小さく答えた。
「……きれいだった、から」
「僕が?」
 少年は心底驚いたような声を上げた。
「君の方がきれいだよ」
 エイーラにとって、それはあまりにも突拍子のない言葉だった。違うと反発しようと口を開きかけたが、再び自分の足元を見つめ、首を左右に振った。
「どうして?」
「……だって、あたし、こんなにきたない、から」
「汚くなんかないさ。君のその栗色の髪はとてもきれいだし、そのエメラルドの瞳はまるで宝石みたいだ」
 饒舌に語る少年の言葉にエイーラはぐっと口をつぐみ、地面をにらみつけていた。
「君の名前は?」
 唐突に少年がエイーラに問いかけた。エイーラは少し迷い、やはり小さな声で答えた。
「……エイーラ」
「エイラ?」
「エイーラ。……伸ばすんだよ」
「そうか。エイーラ、僕はアルヴァ」
「……アルヴァ」
 エイーラは確認するように小さく呟くと、少年――アルヴァに向かって微笑んだ。その笑顔にアルヴァは目を見開いた。
「エイーラ、僕とここで会ったことは僕たちだけの秘密にしよう」
 そうこっそりと打ち明けるように囁いたアルヴァの目は、まるで宝物を見つけた子どものように輝いていた。




 すっかりアルヴァに打ち解けたエイーラは問われるまま、自身の事を話して聞かせた。アルヴァはエイーラの話を遮らず、相槌を打ちながら、丁寧に耳を傾けていた。何故この時間に来たのか、何故この場所なのか、何故エイーラはそんなに痩せこけているのか――。
「……お父さんの弟の、叔父さんのところに、住ませてもらってる、の」
「叔父さんのところに? エイーラの両親はどこにいるんだい?」
「……死んじゃった」
「そうか、だから叔父さんのところに……」
「……うん。あたしは居候だから、お手伝いしなきゃ、だめ、なの」
「そうなんだ。どんな手伝いをしているんだい?」
 そう問いかけられたエイーラは少し顔をしかめ、今までアルヴァをとらえていた視線は下がり、ぽつりぽつりとこぼすように話し始めた。
「……えっと、ね。明るくなる前に起きなきゃだめなの。起きたら井戸から水を桶いっぱいに入れて、……叔母さんが起きて来るまでに、叔父さんとこの畑の雑草、抜いておかなきゃだめ、なの。それが終わってないと……ご飯もらえないの」
 エイーラの言葉にアルヴァは目を開いて驚いた。
「もしかして、そういうことが一日中続いているのかい?」
 アルヴァの問いかけにエイーラは黙って頷いた。その顔は暗く、沈んでいる。アルヴァはおもむろにエイーラの左頬に触れた。
「こんなに、こんなに可愛い子だと言うのに……」
 突然の行動にエイーラは目を白黒させ、頬が上気した。頬を触られ、目の前にいるアルヴァの顔が直視できず、視線が上下左右に揺れて動く。
「あ、アルヴァ……?」
 エイーラの挙動にアルヴァは優しい眼差しで笑った。それは月明かりのように優しく、やはり美しかった。エイーラは自分のおかれている状況を一時的に忘れ、アルヴァの顔に見惚れていた。
「……それなら僕がエイーラを引き止めるわけにはいかないな」
 突然のアルヴァの言葉にエイーラは表情を硬くした。血の気が失っていくエイーラに気付き、アルヴァは優しく語りかけた。
「また月夜の晩においで。僕はここで待っているから」
「ほんとう、に?」
 エイーラの口からこぼれた声は涙が混じっていた。
「ああ、約束するよ。何なら月に誓っても良い」
 そう言ってアルヴァは月に口づけを贈るのを見て、エイーラは小さく頷いた。
「エイーラ、君を失うようなことを僕はしたくないから。だから今夜はもう別れよう。森の入り口まで送っていくから」
 再び頷いたエイーラの手を取り、アルヴァは村への道を闇に包まれた森の中をすいすいと歩いていった。その足取りは一切の迷いがなく、どこをどう歩けば村に着くのかを熟知していた。




 しばらくすると木々の間から村のかがり火の明かりが揺らめいて見えるまでになった。
 アルヴァはそこまで来ると掴んでいたエイーラの手を離した。
「僕はここまでだ」
「……おわか、れ?」
「寂しいけれど」
 言葉通り、寂しげに微笑むアルヴァに、エイーラは最大限の勇気を持って告げた。
「……また月夜、に」
 予想外なエイーラの言葉に目を見開いた後、アルヴァは美しく笑った。
「ああ、待っている」
 その言葉を境にエイーラは村へと歩き出した。久しく生まれなかった明るい感情をその心に抱きながら、まだ闇夜に包まれている村を抜け、今の住まいへと潜り込んだ。
 その胸は早鐘のように脈打ち、なかなか寝付けるようには思えなかったが、横になると同時に意識を失うように眠っていた。




 夢も見ず、泥のような眠りから覚めたのは、いつものように太陽が昇る前だった。
 エイーラは素早く起き上がり、朝の仕事にかかった。
 不思議と昨日までのような疲労感は全くなく、エイーラは一日のすべての仕事を初めて完璧にこなすことができた。
 しかし、叔父夫婦はそれを良しとはせず、いつもの仕事に加え、空いた時間に街の市場で出す麻籠を編むように言い放った。
 それでもエイーラは頑張った。
 次の月夜のために、一日に噛り付きながらも、一日一日を越えていった。

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