音速の夢

ものかき交流同盟夏祭り2007参加作品

目次


 男が目覚めると、そこは真暗闇だった。
 見えているのか、見えていないのかもわからない真暗闇。
 男は自分が今どこにいるのかわからず、しきりに周囲を見渡した。
 そこで、男は気がついた。
 自分が誰なのかも忘れている。
 一体自分は誰なのか、この場所はどこなのか、この場所へはどうやって来たのか――。
 頭の中は疑問で埋め尽くされ、答えのない混沌へと迷い込んでしまった。
 目の端で明かりが灯った。
 混乱したままの頭をそのままに、男は明かりの方へと視線を動かした。
 周囲が真暗闇なのは相変わらずで、周囲の状況はまだ真暗闇だったが、その部分だけは明るかった。
 男は明かりを求めるように、ふらふらと揺れながらその明かりへと歩み寄った。
 無意識の内に男はその明かりを覗き込むと、映写機のように明かりが映像を写し始めた。


 それはある青年のお話だった。
 その青年は誠実で、信仰心も厚く、誰をも尊敬し誰からも尊敬されるような人物だった。
 けれども、彼の周囲にはいつも彼の足を引っ張ろうと目を光らせている青年がいた。
 彼らは幼馴染で互いを一番よく知るはずの間柄だった。
 幾度と無く彼の邪魔をしてくる幼馴染の青年。
 しかし、彼はそれをすんでのところでかわし、成功を収めていった。
 そんな歴史が幾度と無く繰り返された。
 彼も成長し、愛する人と祝福された結婚を迎え、愛らしい娘にも恵まれた。
 そんな日々が続いたある日、彼は幼馴染の青年とすれ違った。
 しかし、彼は幼馴染の青年に気づかなかった。
 幼馴染の青年が声をかけたことにも気づかなかった。
 その日の彼は愛娘の誕生日に浮かれていたのだ。
 運命のいたずらか、人生のどん底にいた幼馴染の青年は幸せそうに笑っている彼を狂おしいほどに憎んでしまった。
 幼馴染の青年はそのままの衝動で彼の自宅へと押し入った。
 そして、そのままの勢いで押し倒し、彼の首に手をかけた。


 目の前がいつの間にか砂嵐が覆っている。
 それと共に、自分が今倒れていることに気がついた。
 何故か体が動かすことが出来ず、周囲の状況を把握しようと目を動かした。
 どこかで見覚えのある部屋だ。
 深いブルーを基調とした書斎。
 目の端で砂嵐のテレビの存在に気づいた。
(先ほどの砂嵐は、このテレビか……)
 男は首に違和感を感じた。
 震えて狙いの定まらない利き手に何とか力を入れ、首元に触れると何か棒が刺さっている。
 無意識的に男はその棒を引き抜いた。
 それと共に液体の膨れる音が聞こえる。
 目の前には、もともとは味わい深いブルーの万年筆が真紅に染まっていた。
 それは、男が幼馴染の青年の結婚祝いに送った万年筆だった。
 万年筆が手から転げ落ちた。
 先ほどまでは気づかなかったが傍らには、青年が呆然と立ち尽くしていた。
 青年の手は真っ赤に濡れ、震えていた。
 (そうか、あれは……あの映像は最後に……)
 男の喉からは呼吸をする度に紅い液体が溢れていた。
 自分が永くはないと察した男は周囲に散らばり落ちた紙を何とか拾い、一言赤黒いインクで書き殴った。
 男が握り締めていた万年筆は静かに床へ転げ落ちた。
 そして男は二度と動くことはなかった。
 青年は男が書き殴った紙を拾い上げ、そこに記された文字を目で追った。
 そこには一言「今までごめん」と綴られていた。
 青年は泣いているような笑っているような表情をしていた。





 その日、閑静な住宅街は騒然としていた。
 それも近所で評判の家族の家に強盗が押し入ったというからだ。
 近所の人々は家族の家の前に止められている救急車とそれを守るようにいるパトカーに阻まれ、実状を知ることはできなかった。
 後日、青年の愛妻とその愛娘の葬儀が行われた。
 青年は、自宅に押し入り愛する家族を刺し殺した強盗にひとりで挑み、頬を負傷したという。
 強盗は青年ともみ合いになり、弾みで喉元に鋭利なものが突き刺さったという証言から、警察はこれを正当防衛として処理した。


 あるところに青年がいた。
 青年は本当の姿を隠して生活していた。
 だが、しかし。
 この青年は誰からも愛されていた。


目次

Copyright(c) 2008 all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-