ある寒い昼間

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 メルヴィは走っていた。
 相棒であるシエルに先導されながら、霜が降りた草原の向こうにある洞穴へと向かっていた。気持ちがはやるせいか、時折足がもつれて転びそうになる。しかし転ぶよりも早く、器用にバランスが取っているため未然に防がれている。
「メル、はやくはやくっ!」
 四足動物であるシエルにとって、メルヴィの速度は物足りないのだろう。先ほどから少し進んでは振り返り、メルヴィを急かしている。
「これでもすっごく、いそいでるもん!」
 太陽が頭の上にあるとはいえ、顔にはこの時期独特の冷たい空気が刺さり、鼻も頬も真っ赤になっている。魔獣の毛皮で作られた外套も風ではためき、あまり意味を成していない。
 次第に呼吸が浅くなり、ひたすらに動かしている足も感覚が痛くなってきている。しかし、メルヴィは目的のものを考えるとその足を止めることはできなかった。
「メル、もうちょっと!」
 シエルの激励に体中の気力を総動員させ、メルヴィは足の回転を速めた。

「すごい……」
 感動の言葉をこぼしたのはシエルだけで、メルヴィは入り口の方で地面にへたり込んで呼吸をしていた。
「も、こんなに、いそぐひつよう、なかったんじゃ……」
 徐々に呼吸が整いつつあるが、心臓はいまだ暴れている。メルヴィは体全体が心臓になったような感覚を落ち着かせることを優先していた。
「ちょっと! メルってば、これをみてもそれをいえる!?」
 すぐ傍らまで戻って来たシエルはメルヴィの襟元をくわえ、ズルズルと奥へと引っ張っていった。抵抗する気力もないメルヴィはそのままシエルに引きずられていく。
「ほら、メル。あれをみて」
 シエルに促されて奥の壁を見た瞬間、メルヴィの時間が止まった。
 その壁は一面に苔が生えていた。その苔は暗闇で発光する胞子を放出する特殊なもので、なかなか見ることができない。それも一色だけでなく、赤青緑に黄色といった複数の光が幻想的な絵を描いていた。
「す、ごぉい……」
 メルヴィとシエルはそのまま時間を忘れて見入っていた。

「やっぱりここか」
 突然頭上から聞き慣れた声がした。
「おじさん!」
 頭上を見上げるとメルヴィの叔父であるヴェルネリが立っていた。
 ヴェルネリはメルヴィと同じ魔獣の毛皮の外套を羽織っていたが、その手に手編みのショールを持っていた。
「こんなに遅くまでだめじゃないか。家で兄さんが慌ててたよ」
「そんなに?」
「そうだよ。もう陽が傾き始めてる」
「えっ、たいへん! シエル、かえろう!」
 まだ壁に見とれているシエルはメルヴィに背を叩かれ、我に返りメルヴィの後に続いた。
「外はもう寒いからこれを羽織りなさい」
 ヴェルネリがメルヴィの肩にショールをかけようとすると同時にメルヴィは走り出した。
「ううん、いらない! それよりもおじさん、はやくかえろう!」
 家路を楽しそうに走るメルヴィの後ろにはシエルの姿があった。ヴェルネリはそんなメルヴィに苦笑しながら暖かい我が家への道を歩んだ。

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