キミは笑ってて

収録:2008/12/31

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 いつもの帰り道、お供のMP3プレイヤーでいつもの音楽を聞きながら帰りの電車を待っていた。
 いつもの見慣れた景色に、よく帰りの電車が一緒になるいつものおじさん。
 あたしの周りは“いつもの”で埋め尽くされていた。
 けれども、肝心のあたしは“いつもの”状態ではなかった。


 あたしにひそかな想い人がいるのは、ごく親しい友人でも気づいてないとびっきりの秘密。
(はぁ……)
 周囲の音をシャットダウンするかのように音量大きくしていくが、音楽も今の私の前では無音に等しいらしい。
 意識にまったく介入してこないのが憎たらしい。
 こんなにしょぼくれている原因は、ひそかな想い人。
 他の女の子と楽しそうに話していたっていう至って平凡な出来事。


 確かに気にはなっていたけれども、こんなにも心の中を侵食されているとは正直思ってはいなかった。
 彼が他の女の子と楽しげに話しているのを見たときの心の焦げた感じと、そんな反応をしている自分への衝撃で、自分でも自覚できるくらい、今、あたしは動揺している。
(早くいつものあたしに戻らなくちゃ……)
 “いつもの”を取り戻そうとすればするほど、見た映像がリフレインされる。
 それと同様に心が焦げるあたし、そして更に焦る。
 なんて悪循環極まりない。


(はぁ……)
 見かけてから幾度目かになるだろうか、ため息を吐く。
 目の前にいつもの帰りの電車がホームへと滑り込んできた。
 でも、今のあたしはそれに乗れるほど、まだ浮上していなくて、いつもの電車がホームを出て行くのを見送った。
(あーあ、行っちゃった)
 心の中でぼやきながら、足元へと視線を落とした。
(明日からどんな顔して会えばいいってのよ……)


 ふと、誰かがあたしの前に現れた。
 あたしと向かい合うように現れた靴は、どこか見覚えがあった。
(……え?)
 慌てて視線を上げると、原因であるご本人がにこやかに笑いながら立っていた。
 あたしは慌ててイヤフォンをはずした。
「あれ、どうしたの?」
 さっきまでの憂鬱はどこかに行ったかのように、あたしはいつもと同じように応対していた。
 ちょっと自分でもびっくり。
「付き合いでちょっと買い物行っててさ。さっきの電車で降りたトコ」
「へぇー。それはオツカレサマですこと」
「まぁな」
 彼はそう笑いながらあたしの隣に並んだ。


 いつものように他愛のない話で花が咲く。
 話の終わりはなぜかいっこうに見えなくて、一本二本と電車を見送りながら、あたしたちは話し続けた。
『まもなく電車が参ります。次が最終となっております。ご注意ください』
 無情にもふたりの間をアナウンスが流れていく。
 楽しい時間ももう終わり。
「あー。これ、乗らなきゃ帰れなくなっちゃうや」
「……だな」
「長々とつき合わせてゴメンねー」
「いや、オレも楽しかったし。こちらこそ引きとめて悪かったな」
「あはは、いいよいいよ。あたしも楽しかったし」
 別れの挨拶を交わす中、最終電車がホームへと滑り込んできた。


「……じゃ、また」
 あたしはこの言葉を合図に電車へと歩き出す。
「ああ。気をつけて帰れよ」
「そっちこそ、気をつけてねー」
 手を振りながら電車に乗る。
「元気が出たみたいでよかった」
「……え?」
 聞き返したときには扉は閉まり、またなと口だけで伝える笑顔の彼がいた。
 どういうことか知りたくて、彼を見つめるけれども、電車は動き出し、彼はどんどんと小さくなっていく。
(これ、後で聞いてもはぐらかされそうだな……)
 打ちかけたメールをそっと閉じ、イヤフォンを耳にかけた。
 音量はいつもと同じくらいに戻して。


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